弥生・古墳時代人の「あの世」とは何処弥生時代の棺は縄文時代後期以降の甕棺墓や土擴墓、木棺墓、石棺墓が主たる棺の形であるといわれてきました。また、共同墓地は方形周溝墓のようです。木棺墓は丸太をくり抜いたものを使っていたといわれてきました(棺が1本の木をたおし造るのですからどちらかの端が太くなっていることからも丸太木棺とわかります)が実用していた丸木舟そのものを棺に利用していたと思えるものもあります。また丸木舟の形に似せて木板を何枚か重ね合わせた細合式の棺も発見されています。船棺遺跡が日本列島では多くの洞穴に残っています。
この洞穴葬の棺なのですが、船棺を新たに造ったものもあるようです。館山の大寺山洞穴には古墳時代の12基に及ぶ船形木棺が発見されています。その船形木棺の写真を見ると(舟が半分残っている写真)、あきらかに舳先か艫を尖らした舟で丸太舟ではないのです。以前、「土墩墓」でお話ししました四川省成都の船棺(せんかん)遺跡にも船(丸太舟ではない)葬がみられるように中国、エジプト、中世ヨーロッパなど広範囲にこの葬法が分布しています。ヒトの移動によってもたらされた葬法なのか、人間の思想進化により当然のこととして複数地域で別々に独立して発生したのかは不明です。
古墳時代の代名詞である前方後円墳を上空からみると壷の形をしています。徐福が不老不死の仙薬を求め中国東海にむけ船出した話は「史記」のとおりです。仙人が棲むという三神山とは蓬莱、方丈、瀛(えい)州の三山のことで、三神山は別名三壷山ともよばれています。それぞれ蓬壷、方壷、瀛壷(えいこ)といわれていました。不死の東海に浮かぶ山は壷形の山と考えられていたようです。仙人が棲むところは何故に壷でなければいけないのか理由があるはずです。
壷のなかには別天地があると言ったのは、陶淵明の「桃花源記」で(フィクションではあるが)桃源郷は狭い洞窟の先にある「あの世=黄泉」だと話しています(「桃花源記」は桃源郷の語源になっています)。
陶淵明(365-427年)は六朝時代に江南地方に棲んでいた人ですから黄老道の影響を受けていただろうと思います。つまり、壷は母体で生命循環の源であり、もっとも気が休まる不老長生の可能な場所ということなのです。
四川盆地が壷形とか女性原理そのものだとかいわれて隠遁隠者の憧れの土地と昔からいわれていました。古代道教の思想が女性崇拝から発展して壷形に母胎を擬似的に考えていたことは容易に想像できます。
日本の巨大な前方後円墳の周囲には掘りをめぐらし、水を引き込んでいます。これは中華からみれば東にある海をイメージしたのではないでしょうか。また、墳墓から発掘される副葬品の銅鏡に崑崙山に棲むという西王母と蓬莱山に棲む東王父の姿を描がいたものが多く出土します。古墳時代の日本人が神仙界にあこがれていたことがわかります。
銅鐸絵画にも西王母の像が見られるということは神仙思想が弥生時代頃には既に日本に伝播されていたのでしょう。3世紀中頃の古墳時代初期以降つまり卑弥呼の時代から壷形の前方後円墳が出来始めるという史実を考えると卑弥呼は神仙信仰の影響を強く受けていたと思います。
古墳時代の墓は土を盛上げた墳丘墓や横穴墓が主流ですが、洞穴墓というのも忘れてはなりません。
洞穴は海岸近郊では波に浸食されてできた海侵洞穴で、三浦半島の毘沙門洞穴や大浦山洞穴などは弥生時代から居住として利用するとともに墓地としても使っていたようです。また、遺体を骨にしたあと改葬した痕跡もあるそうです。
古墳時代中期以降(5世紀)、洞窟は居住ではなく葬送の場としてのみ利用されるようになります。葬法は改葬(再葬)という特徴のほかに火葬が導入されます(僧侶の道昭が荼毘に付された700年が火葬のはじまりといわれていますが間違いです)。三浦市の雨崎洞穴の石室には火葬にされた人骨がいくつも納められた石室があり、石室自体が納骨堂の機能をはたしていたのです。他にも館山市の鉈切洞穴や大黒山洞穴などに火葬の痕跡がみられます。洞穴葬を行なっている人の一部で火葬がすでに採用されていたことを物語ります。
古墳時代の洞穴墓は宮城県の五松山洞穴、南房総の毘沙門天洞穴、紀伊半島の磯間岩陰遺跡、島根半島の猪目洞穴など本州沿岸部に見られるだけではなく長野県依田川断崖の鳥羽山洞穴などにもあります。長野は縄文遺跡の多発地帯です。当時は沿岸民族との交流も盛んであったであろうことは、この墓形や細石刃の産出していることからも古代から栄えていた土地であることがうかがえます。今後、本州内陸部を中心として船葬の歴史が弥生時代以前に遡るような発見があるかもしれません。
さて、弥生時代から古墳時代の人々は黄泉(あの世)についてどのように思っていたのでしょうか。死後に魂は何処に行くかについては時代・地域・民族等によっても異なりますが、大きく分類すると海上(東か西か)、山中、天上、地下に区分できます。
この結論をだすまえに、大阪府柏原市の高井田横穴群のなかに「人物の窟(いわや)」といわれる玄室前道の壁画に葬送の絵が描かれています。この絵は、舳先と艫が高く迫出した船に乗り黄泉に向かう男性とロングスカートを身に付け「袖振り」をしているのです。また船の艫には櫂を漕ぐ人物と舳先には持衰(じさい)らしき蓬髪の人物が描かれています。持衰とは航海の安全祈願のため舟に乗り祈祷を続ける巫をいいます。髪を梳(くし)けらず、しらみを取らず、衣服は垢に汚れたまま、肉も食べず、婦人も近づけず、喪に服する人のように振舞い、ひたすら航海の安全を祈る呪術的な儀式をする人のことです。(航海が失敗すると殺されたようです)
つぎに、福岡県筑紫野市の五郎山古墳の壁画には「あの世」とそこに生きる?被葬者の姿が描かれています。太陽と星が描かれ「あの世」が天上にあることがわかります。また、同県の珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画には「あの世」へ到着する図があり月とヒキガエル2匹、太陽と舳先には烏か鳥が描かれています。
これらの壁画を繋ぎ合わせると、長沙の前漢時代(BC206〜9年)の墓である馬王堆漢墓の帛画と(精緻か否かは別として)非常に似通った考え方です。これにより長江文明に育まれた信仰の影響を強く受けていたと感じざるを得ないのです。
これらを総合して考えると、弥生時代から古墳時代の日本人は「あの世」は海の彼方の天空にあると思っていたようです。また、母体回帰願望が強く洞穴や壷形を母胎と考え遺体(魄)を納めたのでしょう。それ以前の縄文時代後期の甕棺に屈葬する姿も母胎回帰です。甕と洞窟と壷との関係について縄文時代後期から弥生時代それから古墳時代へと棺が変化していった関連性またはその強弱については今後の課題です。
参考文献:辰巳和弘先生の著書『 「黄泉の国」の考古学』 』です。
詳しく知りたい方は、ぜひ御読みください。
蛇足:
土偶の目玉は何故、あのように大きいのか。長江文明の信仰は太陽、鳥、目玉、蛇、母胎、神木など多数ありますが目玉について考えたとき、三星堆遺跡の仮面や良渚遺跡の神獣人面文様でのディフォルメされた目を思い出します。目には強力な生命の源(気)を発するものと考えていたはずです。ただ目玉信仰は中国東北部で古からあったのではないだろうかとの説もあります。縄文時代中期から目玉信仰が石棒信仰や蛇信仰とともに日本に存在していたようです。
弥生時代の墓について今でも謎の多い墓型があります。それは「四隅突出型墳丘墓」といわれている墓で名称のごとく四隅がヒトデのように張り出している墳丘の墓です。山陰から北陸地方にかけて多く見られる墓型で出雲勢力が大和部族と戦う前の時代に作られていたようです。最近保存することが決定した鳥取県大山淀江両町の妻木晩田(むきばんだ)遺跡には二十四基の四隅突出型墳丘墓が発見されています。その他にも楼閣跡や環濠の遺構も発見されています。また鉄器の斧、鋤の先、小刀など北部九州?で作られたのも発見されています。
日本海沿岸部での鉄の発見は鳥取県、島根県、富山県、石川県、新潟県など多数の遺跡から発見されています。鉄製品は2600年前頃の縄文時代後期には朝鮮半島から北部九州に伝えられました。
弥生時代の鉄器の素材自体は朝鮮半島や中国からのものが多く、かなりの鉄器は輸入品といわれていますが(鉄器生産の炉の跡は国内でも発見されています)朝鮮半島の南部と北九州一帯を倭国という国であったとすれば倭国産の鉄器ということになります。
近年、京都府岩滝町大風呂南古墳群から鉄剣が14本発見され話題を呼びましたが、弥栄(やさか)町奈具岡遺跡からは数千点の鉄の破片が見つかり、この遺跡から2000年前の弥生中期には日本にも鉄製品を作る工房があったことがわかります。鉄の伝播に新たな時代考察が必要なようです。
地球規模での鉄器の起源は6000年前頃に鉄分の多い隕石をもとにしてイランやエジプトで作られたようで3200年前にはトルコあたりに栄えたヒッタイト人など鉄による装飾品までつくれる技術になりました。
アジア圏では3500年頃殷代初期に隕石から刃をつくった鉞があります。西周前期の3000年前頃から鉄は鉄鉱石からつくるようになり河南省などに大量に出回ります。
華北では溶けた鉄を鋳型に流し込む鋳造タイプですが江南では過熱しながら叩いてつくる鍛造(たんぞう)タイプが中心です。福岡県二丈町曲り田遺跡で発見された鉄斧は鍛造で作くられています。
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