旧石器時代から縄文時代(日本でヒトが定住したのはいつ頃か)旧石器時代は今から1200年前以前とか1300年前以前といわれています。
この時代の遺跡は多数発見されていますが平地の居住遺跡となると30か所程度にしかすぎません。このことは住居として平地に住まなかったのか、移動が激しく遺跡を見つけにくいのか、洞窟や岩陰を使用していたのか、痕跡が見つかりにくい材料を使っていたのか、はたまたヒトの数が絶対的に少ないためなのか等等といろいろ原因は考えられます。
同一の場所であっても何世代にわったって定住していると住居遺跡数が多く発見され、あたかも大集落が存在していたかのように誤った判断をくだすことになります。個々の居住跡についての時代測定は充分過ぎるほどの慎重さが求められます。
同一場所の住居跡の数から考えると1〜3家族の跡が多いことから血縁関係の濃い親子や兄弟くらいでグループを作り採集・漁労・狩猟などをしながら移動していたようです。移動生活をささえる火の使い方や寒冷用テントなど生活技術はある程度あったと思われます。洞窟や岩陰は居住として利用もしましたが墓や祭りの場として利用したようです。(次回に説明します)
縄文時代の遺跡、特に食料について大雑把に年代順にお話しします。
函館空港近くの中野B遺跡は7000年前頃の遺跡です。居住地跡は約600戸の竪穴住居跡です。同一時期を考慮にいれると同時期の個数はさほど多くはないそうです。これから分ることは長い間、連綿と住み続けた一族がいたということになります。縄文時代人は狩猟民族で獲物を追いながら移動し続けたとの考えは見直される必要がありそうです。
約6000年前つまり縄文時代前期、北海道千歳市美々貝塚北遺跡から畑と思われる跡が発見されました。畑は現在のように畝をつくるのではなく土を掘り起こしたようで表面はデコボコしています。稗属の一種が発見されていることから雑穀栽培をしていたのではないかと考えられています。このことからも種蒔き・収穫が必要ですから一定期間は定住していたことになります。
5000年〜4000年前頃の縄文時代中期になると北海道南茅部町の竪穴住居跡から川の鮭・鱒類の骨が発見されます。大船C遺跡は大規模な遺構で鹿の骨の縫い針や翡翠のペンダント、石剣や鯨、マグロ、アザラシなどの骨が発掘されています。種類の豊富なことから、他の土地に移住する必要がないほど食料となるものが豊富にあったことがわかります。
4800年前頃、山梨県桂野遺跡から発掘された土器には鮭とおぼしき魚と万歳をしている人が描かれています。縄文時代の人々と鮭の深い縁を思い起させます。
大津市栗津湖底遺跡からは鮒とスッポンの骨が6割、その他はウグイ、なまず、モロコ、タナゴ、アユ、スッポンなどさまざまな川魚など食料となる範囲が非常に多いことに驚かされます。
縄文時代後期になると豊橋市大西貝塚(約2500年前)では多量に採った蛤を煮たり剥き身を干したりした加工工場跡が発見されています。これは保存食確保という範囲を超え物々交換を目的とした交易品作成工場跡と考えられています。
食べ物以外からも縄文時代人の定住と地域間交流を窺い知ることができます。
4000年前頃の富山県桜町遺跡からクリの木を建材として利用していたようです。クリの木に加工した痕があり高床式建物のように堅牢な建物がすでに存在していたようです。中国との交流をうかがわせます。7000〜6000年前の温暖期以降なんどとなく新人が日本列島に渡来してきているので当然と言えば当然です。
新潟県内でとれる天然アスファルトは約4000年前に岩手県野田村根井貝塚などから発見されています。
縄文時代は温暖化で海面が上昇しユーラシア大陸から分離したことにより1万年強にわたり孤立した時代だといわれてきましたが、はたしてそうでしょうか。
海を渡り日本列島内での交流も盛んに行なわれていたと思います。また、大陸との交流もあったと思われます。航海には丸木舟や準構造船であっても風雨に逆らわず潮の流れや沿岸航路の知識があれば国内航海はもちろんのこと東南アジアにも航行は可能であったと思います。
5000年前の縄文時代中期には集落が大型化し土器の種類や形態・装飾に従来からの変化が見られます。つまり縄文時代の「繁栄の中期」といわれる時代です。
定住化の時期を拙速に確定する必要はありませんが縄文時代前期から中期にかけ定住化が地域ごとに進んでゆき中期から後期にかけて地域交流が盛んに行なわれるようになったのではないでしょうか。
詳しくは 天野幸弘先生著書「発掘 日本の原像(旧石器から弥生時代まで)」を御読みください。
参考:
○ 縄文土器で木の実を煮沸するアク抜き技術に成功したことによりドングリ、トチの実など食材の幅が広がり自然への適応力深まった。川の遺構から木の実を入れる袋のような編み物とドングリが一緒に発掘されていることから水に晒してアクを抜いた手法も考えられる。
○ 縄文時代から米が栽培されていたようだが主食は木の実であった。
○ 群馬県・長野県・山形県などの遺跡からクリやクルミをすりつぶし動物の肉や血、塩などを混ぜクッキー状に焼いて食べていた(縄文クッキーという)。
○ 縄文人の平均的男性は魚より動物の肉を沢山たべていました。狩りは「落とし穴」方式で、獲物を追いまわすよりは効率的であった。
○ 石川県真脇遺跡からイルカの頭骨を丁寧に並べた状態で出土しました。これは豊漁にたいする神への感謝という祭祀の表れを感じます。漁の技法としては「追い込み漁」ですから多くの参加が必要となります(集団活動の必要性)
蛇足:
○縄文人の主な食べ物について
木の実など:ドングリ、トチの実、クリ、クルミ、野ブドウ、木イチゴ、ヒジ、
クズ、ワラビ、ヒョウタン
魚:サケ、マス、マグロ、フナ、コイ、モロコ、タナゴ、アユ、ギギ、ウグイ、
ボラ、クロダイ、スズキ、コチ、ハモ
貝:アサリ、ハマグリ、マテガイ、バカガイ
鳥:ガン、カモ、ツル、サギ、キジ
動物:シカ、イノシシ、サル、ウサギ、タヌキ、アナグマ、ムササビ
これらの他にもゴンドウクジラ、イルカ、シャチ、トド、アザラシなど大型獣も食べています。またフグの骨が見つかっていることから毒を取り除く知恵もあったようです。
○食料の確保が春夏秋冬にわたり身近に有るのであれば移動する必要性はなくなります。元来、採集・漁労・狩猟を行なっていた移動の民が定住したとしても、森に住んで獣肉や木の実や川魚を食べている部族が海を知らないわけはないので、海岸部族と交流し物々交換をしようと試みるのには、さほどの時間はかからなかったのではないでしょうか。逆も当然そのように試みたはずです。
○ヒトは何故に移動を続けるのか。ヒトは人類誕生から現在まで移動と定住を繰り返してきました。アフリカ大陸で誕生したホモ・サピエンスはアフリカでの気候の温暖化と寒冷化による気候変動により沙漠化が進んだり後退したりしてきました。温暖化によって沙漠化が拡大すると、まるで超スローモーなポンプからヒトが吐き出されるようにアフリカ大陸からユーラシア大陸へと移動します。そこで定住化が進み人口が増大すると絶対量として食料が枯渇してきます(耕作地を拡大することで対応はするのですが肉食の狩猟を必須とすれば移動せざるを得ません)。そこで、ヒトは新天地を求め移動することになります。このことを幾世代も延々と続け地球各地にヒトが拡散し定住し増加して現在に至っています。
○地球規模でヒトが飽和状態に陥ると食料問題や他の資源を求め他の地域を侵略することになります。つまり資源確保という理由から短絡的に戦争を引き起こすことになります。国家レベルや宗教レベルでの群れで争うことになります。理由の如何を問わずホモ・サピエンスの欠点が露呈することになります。
ヒトの総数と食料資源の展望、次世代エネルギーの研究、長期的気候変動の予測、石油資源の循環再生の真偽などを早急に検証することが国連レベルで急務の課題です。少なくとも何らかの利益(広義の)集団で争っている時ではないようです。精神のスパイラルが技術・兵器の進歩と大きく乖離し始めるとホモ・サピエンスは滅亡または衰退します。これが自然への最適化といえばそうなのですが。
○翡翠(翡はカワセミの雄、翠はカワセミの雌)では糸魚川産が沖縄の糸満で発見されました。北海道東部の白滝村の黒曜石がサハリンで発見され、神津島の黒曜石が伊豆半島や関東各地で発見されています。このことからも縄文時代の流通は想像以上に盛んだったことがわかります。
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