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<title>「中国長寿の郷」を訪ねて-146歳まで生きた彭祖の長寿、健康の教えと道教の起源を訪ねて・・旅行記</title>
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<description>中国政府も認める「中国長寿の郷-四川省彭山」と１４６歳まで生きた「「彭祖（パンゾー）」の秘密と教えを現地取材しました。気功・食事・房中術の奥義を日本初公開写真で皆さんに公開します。仲間募集中。</description>
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<title>デンデラのハトホル神殿(特別寄稿）</title>
<description> デンデラのハトホル神殿(特別寄稿）古代エジプト文明は、紀元前７０００年ごろ東サハラ地域で家畜の放牧と穀物栽培が始まることに起源を発している。このあと１０００年後にナイル川流域での農業が始まる。４０００年ごろにはナイル川での帆船の利用が開始され、３５００年には銅製品の加工も始まり、３０００年ごろには文字=ヒエログリフも発展する。その後有名な古代エジプト王朝ピラミッド時代へと続く。メソポタミア文明に２０
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<![CDATA[ <span style="font-size:large;">デンデラのハトホル神殿(特別寄稿）</span><br /><br />古代エジプト文明は、紀元前７０００年ごろ東サハラ地域で家畜の放牧と穀物栽培が始まることに起源を発している。このあと１０００年後にナイル川流域での農業が始まる。４０００年ごろにはナイル川での帆船の利用が開始され、３５００年には銅製品の加工も始まり、３０００年ごろには文字=ヒエログリフも発展する。その後有名な古代エジプト王朝ピラミッド時代へと続く。メソポタミア文明に２０００年程度遅いが、ギリシア文明よりも数百年古いことになる。<br /><br />写真は古代王朝時代のサッカラの階段ピラミッド<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601163728.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601163728s.jpg" alt="サッカラのピラミッド" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br />ここであえて歴史的な記述をするわけではない。今回古代エジプト文明の一端にふれるべく、われわれは８日間のエジプト旅行にでかけた。この行程は、全８日間でカイロからアスワンまでの代表的な古代遺跡を訪問できるものになっている。アスワンからは、クルーズ船にも乗船し、ナイル川沿いの普段日本人が少ない遺跡も訪問する。<br /><br />今回は古代エジプト人の死生観、世界観を探訪することが目的となっていた。<br />その中で訪問した遺跡の中でもとくにわれわれに訪問意義を与えた遺跡が、デンデラのハトホル神殿であった。神殿としては、新王朝時代のものであり、古代エジプトに比較し、グレコローマン化がされているが、逆に、この新たな支配者は、古代エジプト王朝からの王政守護＝神格化伝説をより忠実に再現することで、支配力の強化を図っていたように見える。王を守護するホルス神の母であり妻であるハトホル神殿を壮麗に奉ることが支配力の維持に重要であったことは、このデンデラのハトホル神殿を見て、納得したのである。<br /><br />写真はナイル川沿いにあるコムオンボの神殿（グレコローマ的な神殿、新王国時代）<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601164032.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601164032s.jpg" alt="コムオンボ神殿" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br />このハトホル神殿は、その西壁面にクレオパトラ７世のレリーフが刻まれていることで有名である。<br />しかし、このルクソールから、コンボイでしか訪問できない神殿を、クレオパトラを見るためだけに訪問してはいけない。<br />以下、古代エジプト王朝から連綿と続いたエジプト文明の死生観、世界観をデンデラのハトホル神殿に刻まれたレリーフを見ながら考えてみる。<br /><br />写真はハトホル神殿全景<br /><a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601171902.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080601171902s.jpg" alt="ハトホル神殿全景" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br /><br /><br /><br /> ]]>
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<dc:subject>古代文明</dc:subject>
<dc:date>2008-06-01T16:41:36+09:00</dc:date>
<dc:creator>彭山で健康長寿美食三昧</dc:creator>
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<title>大変長らく執筆が止まっておりました。次回からエジプトの閑話休題。</title>
<description> 彭山と道教研究会会長が休養に入り、寄稿が停止して既に３ヶ月です。今回からしばらくの間、話題をエジプト古代文明に移し、新たな寄稿者により開始したいと思います。
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<![CDATA[ 彭山と道教研究会会長が休養に入り、寄稿が停止して既に３ヶ月です。今回からしばらくの間、話題をエジプト古代文明に移し、新たな寄稿者により開始したいと思います。 ]]>
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<dc:subject>道教</dc:subject>
<dc:date>2008-05-19T19:22:33+09:00</dc:date>
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<title>四川省の皆様へのお見舞い</title>
<description> 今回の四川省大地震での被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。ほんの少しですが各種団体を通じて義捐金のご協力をいたします。
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<![CDATA[ 今回の四川省大地震での被害に遭われた皆様には心よりお見舞い申し上げます。ほんの少しですが各種団体を通じて義捐金のご協力をいたします。 ]]>
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<dc:subject>道教</dc:subject>
<dc:date>2008-05-19T19:19:05+09:00</dc:date>
<dc:creator>彭山で健康長寿美食三昧</dc:creator>
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<title>道教について（三国・西晋・五胡十六国から現在）道教と彭山研究会会長のシリーズ最後の寄稿です。</title>
<description> 道教と彭山研究会会長には、一年半の長きに渡り本ブログに寄稿いただきましたが、今回の寄稿をもって最後にされるというご決定を会長自身よりうかがいました。管理者として、まずは「いままでのご寄稿本当にありがとうございました。まずは一休みされてください」と申し上げるのみです。管理者としては、可能な限り早期のご復帰を期待していますが、是非読者の皆様より再登板要請の声を上げていただきますようお願いいたします。道
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<![CDATA[ 道教と彭山研究会会長には、一年半の長きに渡り本ブログに寄稿いただきましたが、今回の寄稿をもって最後にされるというご決定を会長自身よりうかがいました。管理者として、まずは「いままでのご寄稿本当にありがとうございました。まずは一休みされてください」と申し上げるのみです。<br />管理者としては、可能な限り早期のご復帰を期待していますが、是非読者の皆様より再登板要請の声を上げていただきますようお願いいたします。<br /><br /><br /><span style="font-size:x-large;">道教について（三国・西晋・五胡十六国から現在）</span><br /><br />太平道が「黄巾の乱」を起こしたことで道教は統治者から疎まれるようになり三国時代には道教信仰は低調になります。<br /><br /><br />晋・五胡十六国の時代、道教の発展には統治者の支持が不可欠と考え、統治者に反抗する宗教から封建統治者に貢献する宗教へと変化してゆきます。<br /><br />五胡十六国・東晋（３１７～４２０年）時代、葛洪の「抱朴子」には仙人を３ランクに区分しています。<br />○上士は飛挙して虚空にのぼる、これを天仙という。<br />○中士は名山に遊ぶ、これを地仙という。<br />○下士は、まず死んで、そののち蛻（もぬ）く、これを尸解仙という。<br />ここでは尸解仙を仙人として低いランクに位置づけています。<br /><br />葛洪（２８３～３６３年）は天師道と競った宗派でもあり、不老不死への信仰を中心に布教します。葛洪はカリスマ的指導者として力をふるい、楊羲（ようぎ）（３３０～３８５年）の時代になると、北部の天師道を南部に適応させるため仏教や土着信仰をも取り入れます。また、新しい宗派「上清派」を支援することにもなります。この上清派は本拠が茅山にあるため別称「茅山派」と呼ばれています。上清派は瞑想（道教では坐忘といいます）と隠棲の効用を主として説きます。（茅山は長江下流域の南にある山です）<br /><br />蘇生することが尸解仙の考えを生んだのかもしれません。たんに生き返っただけで仙人として生まれかわったと思うのは理解しがたいのですが、尸解とは遺体が蝉や蛇の抜け殻のように棺のなかの肉体が消えてなくなることから蝉蛻（せんぜい）、蝉脱、羽化ともいいます。復活を願い死者の口に含ませる&#29696;（ふくみだま）には蝉脱を願い、蝉の形をしているものもあります。<br /><br />その後、北部の天師道は寇謙之（こうけんし）（３６５～４４８年）により復活します。北魏では太武帝の関心をひき天師道が北魏の国教になります。<br /><br /><br />唐の時代になると王朝の国教は儒教ですが、統治者は道教を利用し封建君主である自身を「天の神の子」または「太上老君の子孫」と称し道教は盛んになります。「道徳教」を各家庭に一冊ずつ備えるよう指示するほど、政府から重要視されるのです。民は瞑想と煉丹に興味を抱きます。老子の誕生日である２月２５日は国家的な祭日となり、道教の経典は中国全国に普及するのにとどまらずチベットやインド方面までにも広まりました。<br /><br />また、錬金術が最高潮に達し丹薬死した皇帝は、唐二代目の太宗、十一代目の憲宗、十二代目の穆宗、十五代目の武宗、十六代目の宣宗などが水銀中毒で死んでいます（宋代になると外丹より内丹へと興味が移り死者はいなくなります）。しかし見方を変えると、この愚行が現代の東洋医学を生み真の科学知識を得ることになります。皮肉にも医学薬学への功労者ということになります。麻酔薬、医薬品以外にも火薬を発展させた花火の発明や釉薬とともに染料・顔料をも発明したのです。<br /><br />中国医学の特徴を羅列すると<br />○	経験医学である<br />○	鍼灸医学では経絡というルートを考えだし血気衛栄というものが体内には流れ且つ循環している<br />○	脈診という診断法を生み出す<br />○	肉体的鍛錬を重視し、精神修行をも加味した。導引・調息など今日の太極拳や気功治療のもとになっている<br />○	食事療法を重要視した<br />○	陰陽五行説など基礎医学理論は哲学的思想をもっている<br />○	人間を一つの小宇宙と考え、大宇宙と対応した自然主義的な面がつよい<br />○	循環思想、天と地のサイクル、年・四季・月・日・時のサイクルを考え人体に対応しようとした<br />○	四季との調和、天に従うことが大事、陰陽のバランスが健康に良いと考えた<br />○	病気は治療することよりも予防を重視した（養生思想）<br />○	気の概念をもった<br />○	発生はアニミズムであり巫医（シャーマン）である<br /><br /><br />９０７年に唐が崩壊し混乱の五代十国が終わると北宋（９６０～１１２７年）の支配者は道教を国教化し、張陵から綿々と続いている「上清派」の主張を正式に認めました。ただし、煉丹による不老不死の研究は禁じられます。内丹つまり精・気・神を身体の精神的調和の法として取り入れることに力点がおかれます。「精」は創造力や出産を含む肉体の基本的な機能とむすびつけられています。「気」は生命の基本的要素であり運動や体力とむすびつけられています。「神」は意識、知性、精神とむすびつけられています。<br />この三要素はともに調和と均衡を保ちながら錬養しなければなりません。<br />北宋の真宗は「玉皇大帝」として知られている神を最高の神とし、道観も全国の各県で建立させます。１０１５年に真宗は竜虎山（江西省）一帯の地域を天師道に下賜するとともに初期道教の経典を集大成した「宝文統録」を編纂させます。<br /><br /><br />南宋（１１２７～１２７９年）の高宗（北宋の康王）は儒教に基づく国を樹立したので、道教は中国南部で弾圧を受けることになります。しかし北部の金朝（１１２７～１２３４年）では王重陽（１１１２～１１７０年）が創始した「全真道」の信仰が広がりました。全真道は「自然と自由への回帰」を特徴とし、信徒には清心寡欲・無為和静を守ることを主として説きます。中国北部を支配していたモンゴル人の心を引きつけチンギスハンから厚く遇されました。<br /><br /><br />元朝（１２３４～１３６８年）になるとフビライ（元の世祖）は仏教を国教とし、道教の経典を焼却してしまったので残っているものといえば「道徳教」と医学、薬学、科学関係の書物だけになってしまいます。<br /><br /><br />明時代（１３６８～１６４４年）には儒教、仏教との融合が進み三教の差が縮まります。また、中国土着の文化が復活した時代でもあります。永楽帝は儒教を奨励しましたが他の宗教にも寛容で、道士の張三&#20016;（ぼう）を宮廷に招いたりしました。張三&#20016;は瞑想における心身の相互作用を強調するとともに南北双方の道教思想を吸収し多岐にわたる著者を残しています。<br /><br /><br />明・清時代を経て封建制度が衰退するのに伴い道教の力も衰えてゆくことになります。道教思想を基にした民間宗教組織が幾つも創立され複雑化するなかで文化大革命がおき宗教はもちろんのこと道観や歴史的な文物までもが破壊されてしまいます。<br /><br /><br />現在は、道教の信徒は全世界でも３０００万人にすぎないといわれています。これは仏教徒の約１割です。中国人は移動するところ必ずといってもいいほど道教を携えていくようで、華人や中国籍を保持している華僑の社会では道教的要素が色濃く残っています。中華人民共和国は無神論なので、道教の信徒が実際にどのくらいいるかは現在のところ不明ですが政府が宗教に帰依することを許して以来、破壊された道観は修復され始め道教も徐々にではあるが盛り返しつつあります。<br /><br /><br />蛇足：<br />漢方の薬物を「本草」といいます。この学問が本草学です。本草という言葉の意味は五代、蜀の人で韓保昇が「草を本（もと）とす」とありますが、薬の「本となる草」と考えるべきではないでしょうか。「草」それ自体が「芝草」をさす例があり本草とは「仙薬の本となる芝草」であるとの指摘もあります。<br /><br />「神農本草経」は最古の本草経で薬物を上薬、中薬、下薬に分類しています。<br />○上薬：「養命」すなわち命を養う仙薬のこと<br />○中薬：「養性」すなわち性（生）を養う健康薬のこと<br />○下薬：「治病」すなわち病を治す治療薬のこと<br />です。<br /><br />ちなみに上薬には石脳、松脂、丹沙、雲母、石英、人参、地黄、甘草、菖蒲、菊花、独活（うど）、柚子（ゆず）、山椒、胡麻、葡萄など１２０種あります。中薬も１２０種、下薬は１２５種で、全部で３６５種です。<br /><br />後漢頃の「列仙伝」では甘草、茯苓（ぶくりょう）、天門冬の他に韭、葱、ラッキョウ、蕪の種、冬瓜の種、蓮の実などが重宝されていたようです。<br /><br /><br /><br />＊＊＊＊＊　ご挨拶　＊＊＊＊＊<br /><br />ブログに寄稿させて頂いてから一年半弱が経ちました。この間、ご愛読頂きまして誠にありがとうございます。勝手ながら今回で寄稿を終わらせて頂きます。<br /><br />ノートがわりに書き留めておこうと始めた為に、話題に一貫性がなく読みにくかったことをお詫びいたします。<br /><br />最後にまたまた蛇足ですが、雲南省大理で三道茶という三種類のお茶をふるまう習慣が南詔（７３８～９０２年）の時代から始まったようです。<br />当時は清茶、塩茶、蜜茶の順でおもてなしをしたそうですが、私が白族建築である三坊一照壁（中庭を囲んで三方に家屋があり、残りの一方が白壁になっている）で頂いた三道茶は苦茶、甘茶、回味茶と呼ばれているお茶でした。<br />この三種がいつ頃から変わったのかさだかではないのですが、これは人生をあらわしているとのことです。<br />苦茶は「人生の苦しいとき」、甘茶は「人生が充実して楽しいとき」、回味茶「人生を回想する時期」で味も甘辛く後味が舌に残ります。<br /><br />私も、そろそろ回味茶を味わう頃になりました。道士のように隠遁する気構えも持ちえませんので、今後は書き留めた原稿に多少なりとも味わいをだしたいと考えているところです。<br /><br />皆様の御多幸あらんことを祈ります。<br /> ]]>
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<dc:subject>道教</dc:subject>
<dc:date>2008-02-15T18:55:03+09:00</dc:date>
<dc:creator>彭山で健康長寿美食三昧</dc:creator>
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<title>道教について（後漢時代） 道教と彭山研究会会長寄稿</title>
<description> 道教について（後漢時代）後漢（２５～２２０年）の初期のころに老子を不死の神仙とみなす説が生まれます。もはや老子像は道教的な老子像といってもよく老子が長生の人から一歩すすんで不死の神仙であると説く方士の徒がいたことになります。後漢創始者である光武帝（BC６～５７年）の時代、楚王劉英は「黄老の微言を誦し、浮屠の仁祠（じんし）を尚んだ」人物で晩年は「黄老の学を喜び、浮屠を斎戒祭祀した」といわれています。浮
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<![CDATA[ <span style="font-size:x-large;">道教について（後漢時代）</span><br /><br />後漢（２５～２２０年）の初期のころに老子を不死の神仙とみなす説が生まれます。もはや老子像は道教的な老子像といってもよく老子が長生の人から一歩すすんで不死の神仙であると説く方士の徒がいたことになります。<br /><br />後漢創始者である光武帝（BC６～５７年）の時代、楚王劉英は「黄老の微言を誦し、浮屠の仁祠（じんし）を尚んだ」人物で晩年は「黄老の学を喜び、浮屠を斎戒祭祀した」といわれています。<br />浮屠とは仏陀のことで、中国で仏教が祭祀の対象になった最初の記録です。黄老と浮屠を同一視され、老子の教えと仏教が混合し始めます。同様に神仙思想とも混同されはじめます。<br /><br />不老長生と神仙との関係について明確に分離して考える方もいますが命の永遠性を希求することにはかわりはありません。<br /><br />長生術のなかから価値？のありそうなのを御紹介します。<br /><br />まずは「行気」です。行気（こうき）とは導引に含められる呼吸法で時代によって教派によって異なりますが、鼻から清らかな気を引き入れ、口から濁った気を吐き出すことです。重要なことは、これをゆっくり長くて量も少なく行なうことです。納（い）れるとは新しい気を取り入れるので「生気」ともいい、吐くとは故（ふる）い気をすてさるもので「死気」ともいいます。<br />行気法の一例として静気法「臥気（がき）法」と動気法「歩気法」があります。静気法とは座ったり伏したりして静かなところでおこなうことです。動気法は同様のことを始めの頃は緩歩で行い、なれてくると速歩でおこないます。<br />「気を丹田に沈める」という方法で、下丹田（＝関）は「へそ」のとなり二寸のところで呼吸するのがよいとされています。<br /><br />つぎは「導引」です。呼吸法と導引が密接に結びついている例は長沙馬王堆三号漢墓の導引図の前に附されている「却穀食気篇」と称される文です。ここには癖穀して服気する方法、その気をめぐらせる方法が具体的に説明され、後世十二月服気法と称されるものの原型と思われる。<br /><br />後漢末頃の華陀（？～２０８年）によると、導引とは身体を動揺させ四肢を引っ張り関節を動かしたりする一種の柔軟体操です。これに五禽の戯れ「五禽戯」と名づけ虎、鹿、熊、&#29480;（さる）、鳥の戯れを行なうと気が晴れ、汗が流れ、体が軽くなって食がすすむ（却穀食気との関連を無視した話しのようで恐縮ですが）ので、病気の治療に用いられています。<br /><br />「五禽戯」よりの抜粋です。<br />○	虎：四肢で地をけりおどりあがり、すすんでは三度はいつくばり、しりぞいては二度はいつくばる。腰をおおきくうしろにひき、足を縮め天をあおいでふりかえる。これを７回やる。<br />○	鹿：四肢で地をけり、うなじをひいて、振り返ること左に三度、右に二度おこなう。左右の足を伸ばしたり曲げたりすることを二度か三度おこなう。<br />○	熊：正面を向いて天をあおいでから両手で膝の下をかかえる。頭をあげて左側に地面を叩くこと三度、右にもまた七度おこなう。地面にうずくまり手で左右に地面をささえる。<br />○	&#29480;：ものによじ登りぶら下がる。体を伸縮すること上下に十七回おこなう。足を引っ掛けてぶらさがり左右に七度ゆらす。手を鉤のように曲げて、しりぞいて立ち頭をおさえること七回おこなう。<br />○	鳥：両手をあげて片足をあげる。両肘をのばし眉をあげ力をいれることを、それぞれ十四度おこなう。すわって足を伸ばし手でくるぶしを引っ張ることを、それぞれ七度おこなう。両肘を伸縮させることを、それぞれ七度おこなう。<br />結構、疲れると思います。<br /><br /><br />最後に「房中術」です。仏教との最大の違いは房中術かもしれません。これこそ秘伝を必要とする最たるもので、口伝中心で伝えられているので表現されている文字からだけでは理解が難しい世界です。<br /><br />房中術とは彭祖がその道を得た仙人として尊ばれています。しかし彭祖は導引行気の法を善くしたと「荀子」「養生方」「列仙伝」から考えられますが、「神仙伝」になると房中術を殷王に教えた人物といわれ、房中術の達者に祀られるようになり「抱朴子」では「彭祖経」という書物にもなっていたようです。<br /><br />彭祖が説く房中術は広く養生説の一環です。延年益寿のためには人は五官の快楽を適度に節制することが重要だと言われていますが、厳禁するのではなく「房中で精気を閉ざすことを知る」ように戒めています。つまり精気を出さないようにすることを中心に述べています。<br />また陰陽を常に意識して季節・時間・場所を選びます。体位についても詳細に説明されてはいますが効用のほどはわかりません。また相手を替えることも重要だと述べています。<br /><br />以上、導引・行気（こうき）・房中の長生術を内丹といいます。<br /><br />金丹・薬餌（服薬）を外丹といいます。これは体に危険なのでお勧めできませんが一応説明します。<br /><br />「服薬」とは、後漢頃につくられたとされる「列仙伝」によると、彭祖は桂と芝という服薬と導引・行気を組み合わせているだけのようです。<br />服薬の桂とは桂皮・肉桂のことでシナモンです。芝は硬いキノコで日本ではマンネンタケ、サイワイタケと呼ばれている霊芝のことです。精神安定剤や強壮剤として薬効があるとされています（サルノコシカケ科に属します）。最近は抗がん剤として注目されています。（「列仙伝」には毛女の話がでてきます。これは植物性の仙薬である松の葉を食べると毛髪を促すそうです）<br /><br />つぎに「金丹」です。金丹は神仙になるためには、不滅である黄金を常服することが不死に通じるとの考えです。秦・漢の皇帝は富と権力で求め続けます。唐代の皇帝は丹薬を服用して水銀中毒死するものさえあらわれました。（精錬して金を作り出そうと努力した経緯で種々の科学物質を発見することに貢献はします。まさに人体実験に他なりません）<br /><br />金丹道は神仙になるための、つまり神仙道の実践道で錬金術を母体としています。神仙道は神仙のもつ不老不死の神薬を服用することから始まります。その神薬をつくることから多くの危険や困難がつきまといました。神仙道を説く方士の「方」は技術を意味していますから、技術や実験に携わる者が多かったようです。<br /><br />後漢代の「方術」には方遷道、医術、呪術、鬼術が包含されてきて道家・陰陽家・術数・方技（医、房中、神遷など）・巫祝の呪法などを総合したものとなりました。<br /><br />外来宗教のバラモン・沙門は中国人の求める「道術」をよくおこなうことから彼等の道術が中国の方術・芸術・道術に影響し、バラモン・沙門は道術の士、「道士」とか「道人」とか呼ばれるようになりました。一方、中国の儒教・仏教も包含され「道教」と呼ばれるようになりなります。<br /><br />その後、儒教・仏教に対し道家・導術として中国の民間信仰・思想・科学などの各要素が複合された「道」の教えが意識されるようになります。ここに至って「仏教」にたいする「道教」が成立します。<br />一般的に道家は哲学で道教は宗教という考え方がありますが儒・仏・道の三教のなかでいう「道教」と「道家」は同義です。<br /><br />道教教団である「五斗米道」を統率した張陵と、「太平道」教団つまり黄巾の乱の首領である張角の二大教団が出現します。１８４年華北地方で張角が反乱をおこし農民の革命運動の思想的な基盤が独特な現世的性格をもつ大平道教団の教法によって強力に支えられてきたことに注目しておく必要があります。<br />教法は端的にいえば「病苦の原因は本人の罪過で、これを懺悔告白すると、霊力のある符水や呪術をもって治すことができる」ということです。黄巾の乱が鎮圧され太平道が解体してからは五斗米道が道教を代表する存在となってゆきます。<br /><br /> <a href="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080213114953.jpg" target="_blank"><img src="http://blog-imgs-24.fc2.com/p/e/n/pengshan/20080213114953s.jpg" alt="Dscf0071 (2)" border="0" /></a><br clear="all" /><br /><br /><br />蛇足：<br />○	張陵（３４～１５６年）：先祖代々方士の家系で、１４２年に天上の老子が自分の前に現れ宣託を受けたといい、自称「天師道」を創始しました。「治」という２４ヶ所の道場を作り、そこを中心に信徒を組織しました。信徒の家ごとに五斗の米を教団維持費として奉納させたことから「五斗米道」ともいわれ孫の張魯（？～２１６年）は陜西省の南部を中心に独立王国を樹立します。のちに魏の曹操（１５５～２２０年）に従い同意することで天師道を公認してもらいます。しかし北方からの遊牧民の侵攻により天師道の道士は徐々に南方へと移動します。<br /><br />○	張角（？～１８４年）：鉅鹿（きょろく）の人、符水によって病気を治すとの触れ込みにより不況活動を行い、１０年余りのうちに河南、河北、山東はもとより長江流域から西の四川省に至るまで全国大半の地に数十万もの信者を獲得しました。信者を３６の「方（ほう）」に編成し、ひとつの方には１万～７、８千人が所属しそれぞれ渠師（きょすい）と呼ばれるリーダーが統括しました。１８４年（甲子の年）には青色をシンボルとする東方（劉邦は江蘇省出身なので）から来て建国した漢朝の時代は終わり、河北省の中国中部のシンボルである黄色が次世代を建国すると民衆にいい、自ら天公将軍と名乗り、弟の張宝と張梁には地公将軍、人公将軍と名乗らせ１８４年２月全国一斉に反乱に立ち上がりました。頭巾から旗印まですべて土徳にちなんで黄色をもちいたので「黄巾の乱」といいます。張角が急逝したために乱は後漢朝軍に鎮圧されてしまいます。張角は「黄老道」を信奉していました。黄老道とは黄帝と老子を神として崇拝する宗派です。<br /><br />○	「サルノコシカケ」は非常に硬いのでカンナで削るか、それが難しいのならノコギリで細かく切り、ヤカンに入れ時間をかけて煮出します（煮出し袋に入れておいたほうが後々楽です。数度くらいなら再度使用できます）。味が悪くてそのまま飲むにはかなりの努力を要します。特に匂いがきついので冷やして飲んだほうが飲みやすいです。<br /> ]]>
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<dc:subject>道教</dc:subject>
<dc:date>2008-02-13T11:50:52+09:00</dc:date>
<dc:creator>彭山で健康長寿美食三昧</dc:creator>
<dc:publisher>FC2-BLOG</dc:publisher>
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